高齢者が引越しを考えるのが辛いのは、荷物を整理するときに、自らの死と向き合わなくてはならないからだ。防災行政においては、高齢者の居宅の耐震改修や不燃化が進まないことが、問題視されてきたが、その理由のひとつには、このような事情があるのではないか、と遅まきながら気が付いた。引越しをするときは、大掃除のように、気が向かなかったら止めるというわけにもいかず、締切を守る形で、品々を整理しなければならない。身の周りにある物品に向き合うことは、普段であれば何ということもないであろうが、これが死ぬことを想起させるというのは、常在戦場のような訓練を積んできた人でなければ(、あるいは、訓練してきた人であっても、かもしれないが)、かなりのストレスであろう。
「断捨離」にせよ「終活」にせよ、主体の(精神的な)若さや強さという前提が必要である。「断捨離」が行える人は、自分に未来があると信じることができる人だ。「断捨離」後の暮らしが良くなると信じることができなければ、「断捨離」は容易には行えないであろう。私自身も、観念的には、物品や情報整理の必要性を身にしみて感じているものの、何やかんやで「自炊」さえも進んでいない。ましてや、物品や食事の欠乏状態から人生をスタートさせた現在の高齢者たちに対して、引越しせよと説くことは、相当の理由がなければ、困難な話であろう。
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