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2017年6月17日土曜日

(妄想)都政を巡る現況はポトラッチを迎えるとでも言うのか

2017年6月17日1時39分(念のため深夜)時点で、マクドナルド社の公式ウェブサイトには掲載されていないが、『朝日新聞』は、マクドナルド社がオリンピックの最高位スポンサー契約を即時打切ることに合意したと伝えている[1]。同紙が報じるように、この話は、間違いなく異例であろう。今期国会が終了した直後の時点で、グローバルな飲食店企業が降板するということは、無論、近年の同社のわが国における大規模なリストラがあるにせよ、新東京オリンピックの開催にあたり、何かの変化が存在するものと考えることもできる。マクドナルド社は、国際的大企業である。いかなる事情があるにせよ、十分な情報の上に、株主への説明責任をも見据え、その決定は下されているであろう。となれば、この動きに追随する企業が現れた場合、右に倣えとするのが、情報に乏しい個人の動きとしては、合理的である。

突然であるが、本記事は、これ以降、頭のネジが飛んだ話となる。組織犯罪対策法の改正を記念するための戯言である。よしんば何かの拍子に本気が混じると他人に誤解されることがあっても、大丈夫。なぜなら、本サイトは、当局の明らかな検閲の下に運用されているからである。嘘吐きのクレタ人が嘘を吐いていることを公言するようなものであるから、本記事の以下の部分については、冗談と理解するのが適当である。論文風のスタイルの文章の中身としては、これで十分に煙に巻いたように見えるから、個人の名誉と著作権を侵害しない限り、これで、読者からの信用を失う虞以外の要素を怖れる必要はないであろう。

衆議院の法案[2]を読む限り、従来、地震兵器と呼ばれてきた手法のいずれも、共謀の対象とはならないようである。テロ等準備罪には、刑法の往来危険の罪(125条)が対象として含まれ、艦船に具体的なダメージを与えようとする行為は当然対象となる。しかし、艦船に直接の影響が生じないように、あるいは海底ケーブルを損壊しないように、海底に非常に深い穴を掘ることは、見逃されているようである。あるいは、隣地に影響が出ないように二酸化炭素を地下埋設する作業も、対象とはならない。電波法[3]第108条の2第1項も、HAARPの波長が長い(周波数が低い)ために、電波が干渉することは考えにくい。地震兵器は、存在自体を疑問視する向きもあるから、私もその実在を絶対的なものとして信じ切ることはできない(ということにしておく、ということである)。それに、私自身は、これらの行為に着手しうる戦争屋の牽制となるのであれば、テロ等準備罪を容認する旨を何度か述べてきており(2017年5月24日)、その点には変化がない。

いずれにしても、地震兵器の運用は、テロ等準備罪が適用されるにしても、予見可能性が争われるケースになろう。テロ等準備罪の担当者らは、これらの現実の可能性をほんの少しだけでも考慮したことがあったのであろうか。わが国の警察組織の実力が問われる正念場である。条文の適用には、大掛かりな工夫が求められよう。

本件は、Steve Jackson Gamesのいちファンとしては、見逃せないが、他人事ではない「複合災害(Combined Disaster)」である。というのも、都民ファーストの会が築地市場を存続させながら、豊洲市場への移転を容認するかのような、まるでどっちつかずで方針を決めかねているようなふりをしているからでもある。まるで建物が直下型地震でも大丈夫なのかと疑問を抱くかのような塩梅である。自民党は、豊洲市場への移転を積極的に訴えているが、構造上の問題は人命に直結するほどではないと見ているのであろう。あるいは、本当に彼らが国益の保全に関して優秀であるならば、いわゆる誘い受けを狙っているのでもあろう。それとも、どさくさに紛れてまた建設利権を狙おうとしているのであろうか。まったくもって計りがたい。直下型地震であれば、建物が使用できなくなったとしても、人命さえ安全な状態に置くことができれば、震度7に良く耐えたということになり、晴れてお役御免、解体して再建築ということになる。人命が保護できるという条件の下であれば、(佐伯啓思氏への皮肉ではあるが、壮大なポトラッチとなるものの、)私もそれで良いとは思う。

新・東京オリンピックを前にして、都政を取り巻く情勢は混沌としているように見えるが、しかしなお、一種の前例を見出すことは可能である。小沢一郎氏が自民党幹事長を辞任したのは、平成3年(1991年)の東京都知事選挙において、磯村尚徳氏を推薦し、他方で都連が鈴木俊一氏を推薦したために、保守分裂選挙となった責任を取るためであったとされている。その前後、小池百合子氏は、小沢氏のインタビューがやりにくかった旨を『朝日新聞』の連載に回答している〔p.16〕[4]。が、同じ連載をまとめた書籍のインタビューにおいて、小沢一郎氏は、実に親しみやすく話を進めているかのようであり、取材班もその旨を明記している〔p.174〕[4]。指摘するまでもないことであろうが、小池氏が当選したのも、保守分裂選挙を通じてであった。鈴木俊一氏が構想した「都市博」は、次代の青島幸男氏によって中止となった。東京都知事という職には、「魔物」が取り憑いているとでも言うのであろうか。

本稿の妄想は、ここいらで打止めである。



[1] マクドナルド、IOCスポンサー撤退 約3年の契約残し:朝日新聞デジタル
(ロンドン=稲垣康介、2017年6月16日23時28分)
http://www.asahi.com/articles/ASK6J6WGYK6JUTQP01R.html

国際オリンピック委員会(IOC)は16日、長年、最高位(TOP)スポンサーだった米ファストフード大手、マクドナルドと話し合い、契約を即時に打ち切ることで合意したことを発表した。契約期間を約3年残しての解除は異例。

[2] 閣法 第193回国会 64 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案
(2017年06月17日01時54分確認)
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/g19305064.htm

[3] 電波法
(平成27年5月22日法律第26号)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO131.html

[4] NDL-OPAC - 書誌情報
(朝日新聞政治部〔編〕, (1991.10).『小沢一郎探検』, 東京: 朝日新聞社.)
http://id.ndl.go.jp/bib/000002134872

2016年7月30日土曜日

都知事選挙の結果は、「歴史は繰り返す」という命題を肯定するかも知れない

 明日の東京都知事選挙について、皆、必死に各自の候補を応援しているように見えるが、私は、少し穿った物の見方をしている。今回の都知事選挙は、有力とされる三候補のうち、俗にいう保守陣営に属する二候補が票を分け合うという構図が存在するとマスコミによって報道されている。この構図について、読売新聞も、朝日新聞も、日本経済新聞も、今月21・22日に、社の評判を賭けた(はずの)情勢調査を公表済みである。この構図そのものについては、後世の検証となるだけであろう、というのが私の見方である。

 私を心配させるのは、これらの大マスコミが社のリソースを他の候補者に十分割いていないことである。これらの大マスコミの行動は、内心や経緯はともかく、外形上は、1990年の第39回衆議院議員総選挙に係るオウム真理教の再現を狙っているかのように見える。通俗的な理解によれば、期待される票に到達しなかった松本智津夫死刑囚は、以後、日本国を武力で変革する方針へと転換したとされる。各候補を公平に扱わないマスコミの報道姿勢を、今後に生じる危険な勢力の共通の背景要因であると理解することは、陰謀論者でなくとも可能である。

 大事なことなので、本ブログではすでに言及したことであるが、二点を繰り返すことにする。第一点目、綸言汗の如しである。出してしまった物は、後からこっそり直すことも難しいし、直したこと自体が咎められる理由となる。第二点目、歴史は二度繰り返す。歴史を想起させるように陰謀を企画するのが陰謀を進める側の習俗であり約束事である、というのは、陰謀論者にとってのテンプレ思考である。ただし、歴史は二度繰り返すという表現を補足すると、私は、一種の変奏曲のようなものであると考えている。主題を理解していれば、同様の構図を見出すことは容易であるが、そうでなければ、元ネタの存在に思い至ることがなかなか難しいのである。

 歴史は繰り返すものであるという示唆には、注意すべきである。不正選挙という言葉は、特に陰謀論に従来から親しんできた層だけが用いる言葉ではない。今月まで田母神俊雄氏が収監され続け、政治的影響力を発揮することができないという事態は、甘利明氏がほとんど大手を振って通りを歩けるかのような状態と対比されることによって、一部の吹き上がり層の疑心暗鬼を生む危険を生じさせている。東京地検特捜部と、存在するのか否かを確認することが大変困難である東京第四検察審査会という組織が、ここでのステークホルダーである。大多数の健全な思考を有する国民は、これらの司法官僚の独善的とも見うる活動に対して、十分な介入を果たすことができる状況にはない。実のところ、多数派の国民は、お任せ主義であるに過ぎないのではあろう。しかし、相対的に状況を把握するという訓練に努めてこなかった者であれば、この状況を、特定の候補者に利益を与えるものであり、不公正なものであると考えるであろう。私は、田母神氏の意見のすべてに与する訳ではないが、同氏に対する扱いが不公正であると言えること、また、この状態から生じる影響の両点に対しては、憂慮しているところである。

 大半の都民がいかに考えようとも、複数の要因が関与する形で、東京都知事選挙は、一定の予想された結果を生じさせることになるであろう。明日の結果は、仮に、不正選挙なるものが機能しており、その上で、私の直感と個人的体験を信じるならば、「最も馬鹿で行動力のある者が、最も利用しやすい人物である」という陰謀論の「定石」が発揮されたものとなる。陰謀論も、この程度まで抽象的に表現してしまうと、別の観点からの人生訓であるかの様相も呈してくるのであるが、それは、私なりのご愛敬である。なお、この表現は、多数の候補者のうち2名について、対照的な結果で実現することになろう。うち1名の候補に係る表現は、必ずしも正確ではなく、応援演説者を念頭に指摘したものである。明日(以降、深夜)の開票結果について、最も大事なことは、よほど慎重な事前の設計がないと、「利益を得た者が誰であるのか」を期せずして明らかにしてしまうということである。途中で票読み機器に介入するというのは、基本設計として愚策である。(ネイマン=ピアソン学派の)統計学、私以上にできない奴が設計しただろよ、これ…というのが率直な感想である。

 蛇足1。「労働貴族」などは、消極的な行為を通じて、最も利益を得た組織として取り立てられるのではないか、と考える次第である。根っからの奴隷根性に尊敬の念すら覚えるところである。

 蛇足2。本稿は、不正選挙の実在を仮定したときに、「1+1=2」というお約束事程度に確定的なものとして立ち現れる状況を予測したものに過ぎず、この点、私も「理系くん」思考から脱却できない存在である。本稿における予測が正しく的中したとき、「何かが間違って1080度くらいの回転が加えられた結果、私の予測と現実が合致した」のか、「どストレートに私の予測と現実が合致した」のか、のいずれかが正しいこととなる。

 蛇足3。公職選挙法も、制定当初、制定に関与した法制局関係者は、公職選挙に関連して、ここまで不正選挙の方法が発展し、結果として民主主義を阻害するという事態を予想していなかったに違いないであろう。それが証拠に、機器を導入する必然性は、法に規定されていない。その想像力の欠如が、選挙結果に係る予想を明記するという私の作業を阻害する原因となっている。ここにも、「各人が各人の職務を十分に実施すれば、社会全体が良くなる」という理念を適用することができる。

平成28年7月31日21時40分追記・訂正

日本語としておかしな箇所を訂正し、色を付けた。spanタグが混入していた部分について、タグを削除した。

平成28年8月2日13時追記(本記事の補足・解題)

本記事は、特定の2名の候補者に係る懸念を表明したものであるが、この2名に該当しうる候補者がP氏、Q氏、R氏の3名となりうる表現方法を取ってしまっていた。読者に誤読を許す結果となった理由は、第一に、私の表現方法の稚拙さにある。しかしながら、誤読を招かないための材料として、私は、不正選挙を条件に挙げてはいた。不正選挙について、候補者らの所属する社会集団がいかなる考え方を有しているのか、という条件を考慮すると、不正選挙について言及する社会集団に所属して落選したであろうと考えられた候補P氏、不正選挙については言及しない社会集団に所属して当選したであろうと考えられた候補Q氏、不正選挙について言及しない社会集団に所属して落選したであろうと考えられた候補R氏、と分けることができた。本記事は、P氏とR氏に係る不正選挙についての考え方の相違がいわばプロレス上のアングルとなり、わが国に治安上の不安をもたらすのではないか、という懸念を表明すべく用意されたものであった。

 R氏本人とその周辺が不正選挙について大きく指摘したという事実は、インターネット上でも、公知とはなっていないようには見える。ただし、私の調査も不足気味ではある。とはいえ、R氏の所属する社会集団は、多くの言動から一員であると推認される人物から発出されたテクストなどの、確認可能な材料をとりあえず信用すれば、不正選挙の存在を否定する側にいるかのように見える。もちろん、この設定自体が「釣り」に近いことも十分に考えられる。

 R氏の連なる社会集団が治安上の不安要因とならないと断定する理由は、どこにもない。R氏所属の社会集団のトップの言論が、複数の人物に対して、法律上グレーな範囲で大きな迷惑をかけてきていることは、第三者にも確認できる事実ではある。また、犯罪予防対策を念頭に置いた場合、「行動力のある」という本記事の表現方法は、R氏に連なる人物の行為にも合致してしまっている。とはいえ、R氏所属の社会集団は、本記事のスコープからは外れる。とはいえ、この集団がP氏よりも治安を攪乱する要因となる行為に手を染めた実績がある訳でもない。平成28年7月の都知事選挙がR氏所属の社会集団の転回点であったと後世に記憶されるようなことは、おそらくないであろう。他方、P氏の実績には、多くの犯罪と見なせる、また、場合によっては外患誘致にも該当すると見なしうる行為が含まれている。P氏の危険性は、公民権が停止される程の結果を引き起こしてはこなかったが、その理由は、主に、わが国の司法機関の側にあり、違法性を「ベルトコンベアに乗せる」際の裁量の余地が大きなことによる、と言える。

 私は、R氏に係る経緯について、記事執筆時に失念していたが、同時に、上記のとおり、オウム真理教について言及した。この組合せは、R氏に係る誤読を深める原因となりかねないものであった。ただ、繰り返しになるが、R氏の与する社会集団は、私から見れば、不正選挙を否定する側である。他方、オウム真理教は、私の承知する限り、不正選挙に言及したことがある。この状況は、不正選挙を客観的に掘り下げる作業のハードルを上げている。打鍵猿が偶然の単語を導くことがあることと同様、誰であっても正しい解釈に至る可能性は、ゼロではないのであるが、オウム真理教の言明は、わが国の健全な国民にとって、すべて受け入れられるものではないであろうからである。

 私は、本記事の執筆にあたり、R氏所属の社会集団とオウム真理教との不正選挙に係る考え方の違いを重視した。不正選挙は、事実であれば、構成要件には該当しなくとも、その実質は、内乱罪と呼ぶことができる。一種の脱法的行為と見なせば、犯罪学の興味の対象となる。オウム真理教について認定された行為は、多くが自然犯として裁かれる中で明らかにされた訳ではあるが、むしろ、同教団の目的は、内乱罪と共通していた。権力の奪取という内乱罪と共通の目的の下に、非合法的な手段を正当化する際、不正選挙というレトリックは、オウム真理教によって利用された実績を有する。このとき、不正選挙の可能性を合理的な疑いなしに指摘し、より犯罪に着手しやすいと認められる性格を有するのは、R氏の所属する社会集団よりも、P氏の連なる社会集団なのである。

 以上の論拠によって、私は、特定候補の名指しを避けつつも、実現の可能性が懸念される危険について、表現を試みた。その結果は、誤読を許すものとなっていたが、人によっては、誤読も避けられたのではないかという弁明と、誤読を避けるための補足は、本追記で行った(と期待したい)。なお、本記事を作成した理由は、死刑もありうる種類の犯罪が現実に進行しつつある可能性が認められるとき、介入を試みない犯罪学者は実社会に対して臆病過ぎないかと考えた、というものである。懸念される犯罪が、オウム真理教によるもののような大事件であれば、なおさらである。なお、不自然なキャッシュ登録状況が認められるだけに、このブログに記すだけで、私が自身の目的を果たせたと考えているところが、本稿のオチである。

2016年7月17日日曜日

基本的人権の擁護は新東京五輪の開催に優先する(宮家邦彦氏の議論に対して)

基本的人権の制限、テロ対策に必要? 宮家邦彦氏ら議論【東京オリンピック】
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/17/fundamental-human-rights_n_11036744.html

7月17日に放送されたフジテレビ系列番組「新報道2001」で、2020年の東京オリンピックのためのテロ対策として、基本的人権の制限が必要がどうかが議論された。出演したキヤノングローバル戦略研究所の宮家邦彦研究主幹が「今までのやり方では絶対に不可能。そこは考えなきゃいけないと思います」と述べ、議論が必要だと強調した。

とある。わが国は、すでに先進国と呼べる状態にはないのであるが、テロ対策においても、先進国であるための規範的な要件であるはずの基本的人権の保護を犠牲にして、開発独裁国家としてのオリンピック成功を企図するようである。宮家氏は、2001年の同時テロ事件に際して、子ブッシュ政権が採用した政策体系を念頭に置いているのかも知れない。しかし宮家氏は、15年後の現在、大統領候補のドナルド・トランプ氏が9.11の再調査を行うことを提案し、これに反発しているブッシュ一家が共和党大会を欠席することを、まさか知らないわけではあるまい。たったの15年で、基本的人権の大幅な制約を狙った戦争屋の目論見は、ひっくり返されたことが衆目に明らかにされているのである。

のっけから脱線するが、トランプ氏が9.11についての調査を進めることを、個人的には大変楽しみにしている。9.11の再調査は、アメリカが超大国たり得なくとも、まともな先進国として生き残るためには大事な過程である。子ブッシュ兄の方を少なくとも同事件について罪に問うことができるか否かは、今後の世界を左右する重大事である。子ブッシュ弟も同事件に至る過程についてクリーンというわけではなく、2000年の大統領選挙について、フロリダ州における選挙上の不正に関与している疑いが指摘されている。もちろん、自称デバンキング作家等、わが国における戦争屋の追従者に、「ねえねえどんな気持ち?」のアスキーアートを貼ってあげたい気分でもある。

本稿の焦点に戻ると、先進国を先進国たらしめているのは、基本的人権の保護・充足状態であり、この点を自覚しつつ基本的人権が実現されている状態を高い水準で維持しようとする国民ひとりひとりの(再帰的な)意思である。(陰謀論業界周辺ではいろいろと反発はあるが)国連(=連合国)の『アジェンダ21』(でさえ)も、(ここで念頭に置かれている人権とは種類が異なるものと目されるが)司法に係る人権を一項目に含めているほどである。

宮家氏は外務省OBであり、少なくともわが国では所轄省庁OBとなるので、国連(=連合国)の論理(=建前)に通暁していない訳があるまい。であるのに、「国際的に先進国であることを示す」場であるはずのオリンピックにおいて、基本的人権を制約する、という本末転倒な提案を行うからには、宮家氏は、よほど何かの確証を掴んでいるのであろうか。仮に、そうであるとすれば、宮家氏こそ、率先して交友関係やら金銭関係やらを開示し、国民に範を示さなければならないであろう。

ロンドン五輪に際しては、基本的人権を軽視した事件によって、英国社会の構造的な課題が露わにされた形となった。ロンドンなどの都市で2011年8月に生じた暴動は、五輪事業で万人が等しく恩恵を受けた=包摂された訳ではない、という文脈で捉える必要があるものでもある。直接の契機は、警察による銃器事件捜査における、アフリカ系英国人容疑者の射殺であった。(記憶に頼る限りでは、その後の調査により明らかにされた事件の詳細は、また調査そのものは、権力に阿るものであるようには思われなかったが、)ロンドンのアフリカ系低所得者層居住区であるハックニーでは、大々的な暴動に発展し、わが国でも報道された。英国社会は、伝統的に階層社会であったが、五輪事業前にすでに移民社会ともなっており、五輪景気に乗るための社会競争も厳しいものであったことが暴動の要因の一つと見なされているようである。

権力側の人間によって基本的人権が蹂躙されることが、基本的事件を制約する必要を謳うかのような事件の原因となるとすれば、先に原因の芽となる権力側の非違を摘むことが大事である。これが、ロンドン五輪前の(私の中ではハックニー)暴動の教訓である。この論理は、別に私のオリジナルという訳ではなく、モンボイス[著]渡部正郎[訳], (1969). 『市民と警察』, 立花書房.からの演繹である。翻って、宮家氏の主張は、わざわざ権力の側から基本的人権を抑圧することを明言したのであるから、議論の前から、先進国の権力を付託された側の人間として、負けたことになっていないか。

今後のわが国の下降線の行き着く先は、なかなか読み切れないのであるが、わが国に生き残りの芽があるとすれば、その方法は、諸国民の公正と信義に頼るほかない。福島第一原発事故について、嘘を吐き続けてきた政権を担いできた日本国民ではあるが、日本の政体の嘘がバレ尽くして、国際的に彼らの進退が窮まったとき、全員が全員、開き直って「ヌッ○○してみろや!」という訳にはいかない。国際的には、そのくらいの被害を、ダダ漏れの5年を通じて生じさせてきたのであるが。(北半球+環太平洋で、60年代くらいの死亡率の上昇だと見ると、大体、予想される被害が日本人全員の人口規模に達する。)

いずれにせよ、今後のわが国が何とか国際社会の一角に地位を占め続けるためには、基本的人権の墨守こそが生命線となる。2020年の新東京五輪の開催があるにせよ、その制約は、「基本的人権をまったく制約しない」という条件の下での代案を(真摯にかつ包摂的に)出し尽くした後でなければ認められないのである。元々、安倍晋三氏の嘘、「アンダー・コントロール」で獲得した新東京五輪である。根本に誤解がある以上、新東京五輪の開催は、基本的人権を制約する必要があれば、取りやめて構わないであろう。基本的人権の擁護は、わが国の生き残りに必要であるが、東京五輪の開催は、わが国の生き残りには不要なのである。




2016(平成28)年10月21日追記

読み間違いをなくすために、追記して淡赤色で示した。




2017(平成29)年11月11日訂正

誤字を淡橙色で訂正し、タグをpタグ中心とした。

なお、私は、今も安倍晋三氏の「アンダー・コントロール発言」を国民を欺くものであると考えている。