ごく一部、別記事(私信、削除済み)を反映・加筆している。まとまっていないが、まあまあ面白くなってきたように我ながら思うので、これでとりあえずアップする。
私は、先日の電話で、思いを寄せる人にこれ以上なくフラれたにもかかわらず、かの人の設定した枠を勝手に変えた挙げ句、お電話お待ちしていますと取次の人に言付けてしまったのだが、そこでの問題は、私がいつまで待てば、誠意を尽くしたと言えるのかである。私の状況に置かれた男という生き物は、果たして、どのような待ち時間分布を形成するのであろうか。きっと、平均値一日未満の、裾のきわめて軽い分布になりそうである。言い換えれば、ほとんどの男性は、すぐに根を上げるに違いない。私も、その例に漏れず、余程の集中力が必要とされる時間以外は、身が擂り潰される思いでいる。私は、一日たりとも、この思いを持ちたくないし、この状況を適正な状況に戻すだけの警告・逮捕のリスクを冒してでも、努力を重ねるという選択肢をどうしても取りたくもなってしまうのである。
私の状況を説明する上で、何ら役に立たないものの、一旦、脱線しよう;NHK朝の連ドラ『半分、青い。』の今週の律くん(萩尾律役は、佐藤健氏)は、若い時期の四年を待ちきれなかったようであるが、世の多くの男性は、この流れに対して、十分な理解を示すのではなかろうか。別の女性に思いを寄せられることがあっての四年間であるし、大体、四年前にフラれているのだから、私としては、何ら責めを負うところがないと思ったりもする。もっとも、世界に名を轟かすような実績の研究室に所属する大学院生は、わが国では、まともに自活できないにも関わらず、多忙に過ぎようから、ポスドクの職を得るまで(、そして、大抵のポスドクは、今までの彼らの努力と成果に見合わない給与で働いているのであるが)、結婚しようにもできなかったのかも知れない。
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』[1]は、家族の解体をブルジョア(=巨大金融資本家層)の策略として認識し、そのために売春と自由恋愛(有り体には不倫)が利用されることを指摘している〔pp.69-71〕。また、この部分では、婦人の家庭内における地位向上(有り体には「産む機械」扱いから対等なパートナーへ)が家族制度の破壊を意味しないことが強調されている〔p.70〕。ヘテロセクシャルのまあまあ多くの男性は、一旦結ばれた女性に対して、それなりに責任を覚えるであろうから、先に見たような『半分、青い。』の話の流れは妥当だとも思うし、家族制度を強化するものが何であるのかを良く暗示するものとも考えられる。もっとも、既婚者であっても、火遊びを厭わないアホな労働者の男は多いから、世の性風俗関連特殊営業や浮気を促進するツールが繁盛しているのであろう(。念のため、いくら給与が高くても、労働を対価として賃金を得ており、個人の責任ですべてのカネを取ってこなければ、労働者である。売春を初めとする性風俗産業は、この点、労働そのものである。さらには、髙木仁三郎氏のような組織の意向を反映するための人工芝ではない希有な例を除けば、わが国には、独立した気概を持つ研究者が少ないものと評して良いかも知れない)。
マルクスとエンゲルスらの指摘した、家族内での両性の平等と社会構造との相互依存的な関係性は、現代日本社会の主流メディアにおいて、十分に強調されておらず、私の見たり聞いたり読んだりした範囲では、わが国の学術上の共通の知識基盤とはなっていない。性愛行動と社会関係との相補的な因果関係は、ヴェルナー・ゾンバルトのように誠実で優秀な学者には、必ずや気付かれることであろう(。私は、『陰謀論の正体!』の著者の田中聡氏に、ウソ吐き呼ばわりされるような陰謀論者であるからこそ、偶々気が付いたに過ぎない)。だからこそ、ゾンバルトは、自由恋愛が、贅沢品への需要を産み、セヴィル・ロウのような特定地区への豪奢品産業の集積を促進し、ショッピングという行動様式を形成した、という論理展開を、まるで出来過ぎた物語のように描写できたのであろう[2]。
今では、これら両書を顧みること自体に政治性がつきまとうが、それらの指摘を虚心坦懐に受容すれば、個人の自由意思を前提として性風俗産業を肯定すると、却って抑圧的な社会が実現・維持・強化されるという皮肉な構造が存在し得るという気付きに、読者の多くが、至ることができよう。陰謀論者は、ぜひ、両書に触れて、そこでの論理展開を堪能すべきである。いち陰謀論者としては、彼らの指摘した内容がなぜ人々から忘れ去られるに至ったのかを考えるとき、従来からの陰謀論者の主流の見方が世間一般の見方よりも的を射たものであるように思えてしまう。つまり、これらの知識は、支配する側にとって有用なものだからこそ、人々の興味を引かないような形で、公開され続けてきたのである。
また、「利用可能な脆弱性は、世の中における不公正な構造を維持強化するために、必ずや利用される」という陰謀論者風味のセキュリティ上の考え方に経てば、平等な家族・社会制度と性風俗産業との調和し難い関係性を軸とすると、現代の労働者階級と一部リベラル論者は、この軸上で対立的な関係にあるものと指摘することもできる。この対立関係自体は、これだけでは、一部リベラル論者を非難するに及ばない材料である。しかし、その一部論者が、対立関係の含む意味のすべてを、現代の労働者階級に対して分かりやすく説明していないとすれば、その説明不足こそは、彼ないし彼女が(無意識的には)イヌであり、あるいは国際秘密力集団のアドボケイト(奴婢)に過ぎないという消極的な証拠として認めることができよう。この論理は、簡単に、次段落にまとめよう。
家族制度が解体し、労働者階級が心身ともに結束できない状態は、分断統治がきわめて容易である。家族という単位は、私が言えたことではないが、上手く回れば、一対一の信頼関係を多対多の信頼関係へと発展させる上できわめて効果的な社会装置であり、人間という生物に必須の社会単位である。個々の家庭の成員がこの信頼関係の構築に成功して、支配者階級を人数比で圧倒することこそ、本来の左翼に必要な革命の作法ではないのかと考えることもできよう。この一方で、このように固い絆で結ばれた家庭は、右翼にとっても理想的な家族像として映ることであろう。この点、幸せな家庭像を考察するとき、そのあり方は、特段、左右の別なく、了解可能なものであるかも知れないのである。であるにもかかわらず、自称リベラル系の論者がこの論点に言及しないとすれば、そこには何らかの理由があるとしか言えなくなるのである。この規範そのものが社会的に構築されたものであるだなんて、ごく当然のことである。問題は、人間の十全な発達にとって、この規範ならびに制度の実際が、有効に機能しているか否かである。仮に、一部「リベラル系」論者が自身の理想こそ正しいと信ずるのであれば、それを実証するとともに、彼らの主張が現在の抑圧的な経済体制を強化しているという古典的な批判にしっかり反論を提示すべきであろう。そこに不備があるとすれば、それは、彼ないし彼女が無能であるか、悪意があるかのいずれであるためである(としか言えない)。
なお、エーリッヒ・フロムは、カール・マルクスの思想を、ジークムント・フロイトの思想と同様、ヒューマニズムに発するものと理解すると同時に、共産主義の理想が誤解された形で当時の社会で応用された旨を指摘している[3]。このフロムの意見は、いち陰謀論者から見れば、フロムを含めたこれらの先達の意見があまりにもおかしな形に加工されて流通していることをふまえれば、国際秘密力集団の狡猾さを浮き彫りにするものとして理解することができる。この一点だけでも、フロムは、学術界における、私が譬えるところの仮面ライダー的存在であると指摘できよう。
これまた、学術上の実績が極小である私と比較するには最大限に不適切な事例であるが、セーレン・キルケゴールは、おそらく男性機能の不能のために、思い人のレギーネとの結婚を諦め、婚約を解消したと解釈されている。このとき、キルケゴールの思い人・レギーネは、果たして幸せだったであろうか。不勉強ゆえに、先人の研究成果を十分に把握していないが、少なくとも、後の旦那は出世してるし、客観的に見れば、当時の家庭人を基準とすれば、幸せであったのではと言えそうな気がする。また、キルケゴールとレギーネは、教会で挨拶し合うも、最後の別れまでは言葉を交わさない仲であったという。なお、ここら辺の話は、ポール・ストラザーンの『90分でわかるキルケゴール』[4]を参考にして、うろ覚えで書いている。以下、キルケゴールについては、同氏の解釈を参考にして記述を続ける点、また、誤解があれば、それは私によるものであることを、お断りしておく。
キルケゴールは、他者の幸せを願う気持ちを持ち続け、道化のように振舞い、短い一生を悔いなく生き抜くことにより、後世の人々に、自分自身という存在が何者であるかを考え抜くことが大切であると説いた。キルケゴールのレギーネを想う気持ちが本物であると言えそうなことは、私自身に真似できることではないが、私にも分かる。相手が幸せであるのなら、自分がほかに幸せを求めざるを得ないことも、悲しいこととはいえ、まあ分かる。しかし、お互いが客観的に不幸な状態で待ち続けることは、ヒューマン(人間)というよりもエコン(経済的合理人)である私には、どうにも違和感の残ることでしかない。
ところで、ジャン・ポール・サルトルが性に奔放な生き方を通じて「実存主義」を謳い、生存中に時代の寵児となったことは、かつての婚約者を偲ぶキルケゴールの一途さを思うとき、あまりにも皮肉なことである。陰謀論者であれば、この換骨奪胎ぶりに、何らかのカネの臭いを嗅ぎ付けることは、さほど難しくはないであろう。家族という制度・構造・規範に着目するとき、サルトルの行為は、実存主義という語の「背乗り」であるとも解釈できる。なぜ、サルトルがキルケゴールをサルトル自身の「実存主義」の先駆者であると認めなかったのかは、陰謀論者風に解釈を進めることもできる。サルトルが自身を作られた偶像であると認識していたとすれば、また、家族という伝統を軸に置いたとき、キルケゴールの主張とは異なり、サルトルの主張が権力集団に傅く方向で作用することにサルトル自身が自覚的であったとすれば、サルトル自身の強弁は、彼の学問に対する悪行を、ひねくれた形で懺悔したものと解釈することも可能である。私は、初めて彼らの思想に接したときの違和感を、ようやく、陰謀論という思惟形式の助けを借りて、整合的に解釈できたように思うところである。
刹那の快楽に慰めを見出すサルトルの姿勢は、待ち時間モデルの時間に係るパラメータが限りなくゼロに近いものと評することができようし、その対極に、キルケゴールの一生という待ち時間を対置することができよう。人間の一生は有限であるから、時間パラメータも有限でしかなく、人間は、せいぜい、その時間に見合うだけの誠意しか見せることができない。ただ、自身の残り時間のすべてを同じ人に捧げることができる人は、幸いというほかなかろう。このとき、私は、どうしたものかと考え込んでしまう程度に、ダメ男なのである。
これら先達の思想を並べてみたとき、ある意味、合理的(=非人間的)でもある私は、今の状態からの脱却を図る上で、どうしても既存の法秩序に違和感を覚えてしまい、何とかして、キルケゴールの「正」とサルトルの「反」を経て、「止揚」を果たすことができないのか、と思ってしまったりもするのである。その一つとして、自由な性風俗産業という市場を改造するという、ちゃぶ台返しを空想してしまったりもするのである。この考え方は、空想的社会科学主義者でポリアモリーのはしりとも言うべきフーリエ(、建築・土木・都市計画分野では、ファランステールの構想と監督で有名、資金をブルジョアにねだるなと『共産党宣言』で批判される)のライフスタイルとは対極にあり、カルト宗教のいくつかに酷似した思想でもある。
20世紀後半以降の哲学は、ソクラテスの時代に立ち戻り、二人(2集団)が、お互い納得できるまでの対話を大前提とするようになったが、この流れには、非暴力主義の目標である「和解」が深く影響しているようにも思われる。古代ギリシャでは、奴隷や男女格差を前提とした「市民」同士の対等な関係の構築が目指された。これに対して、非暴力抵抗の教えは、黒﨑真氏の説明を借りると、差別の解消というゴールに至るために、お互いが相手を打ち負かして上下関係を作ろうとするのではなく、異なる条件を持つ両者がお互いを対等な人間と認め、和解するほかないことを強調する〔pp.72-75〕[5]。武力・暴力は、勝ち負けを通じて、敗者には覆しようのない上下関係を人間社会に作り出す。国際連合で主唱されてきた「差異ある平等」は、この理念を前提として編み出されたキーワードであるが、この組織のはしりが第二次世界大戦の戦勝国すなわち連合国であったことは、善い意味で捻れた話である。
当然ながら、和解しようとする二人(2集団)が求める内容は、お互いが納得できるだけの幸せな状態であるはずであろうが、しかし対話がなければ、お互いに損な状態を続けてしまうという誤謬がある。ゲーム理論にいう「囚人のジレンマ」である。囚人のジレンマでは、被疑者(あるいは被告)の二人がお互いに申し合わせることができないからこそ、疑心暗鬼に陥り、お互いをチクリ合い、重罪に処せられることになる。現在の世界もまた、それぞれに不幸せな国民が分断統治された状態にあると言うことができるかも知れない。もっとも、TPP11のように、強者である無国籍大企業群が自由に国境を超えることができる現在では、国民国家が強化されることは、ほぼ唯一の、同毒療法の前提でもある。
カネの力で好き放題する連中がのさばってきた中、大勢の弱者に与えられた対抗手段は、本稿に示した解体されつつある家族制度に留意して、共通の成熟した意識を持ち、圧倒的な人数比で、カネの力で靡かせようとする人物たちの影響力を封じ込めることしかなかろう。人権という概念が世界的に認知されるようにはなった(、ただし、わが国では、実践されていない)という事実を前提とすれば、現代における人海戦術は、現代的な権力構造に対する必要十分な理解を前提とした上で、パートナー間の愛情によって実践される必要があるのであろう。このとき、人間の弱さ・愚かさに配慮するなら、人権を自ら損なう種類の個人の自由は、対話を通じて、抑制される必要があろう。対話でもダメであれば、そのときどうするのかは、私には分かりかねるのであるが。
私は、身勝手にも、以上のように考えてみたが、結局、冒頭の疑問に対して、自分の答えを見つけられないでいる。結局、待つことについては、頑張れるだけ頑張ろうとも思うが、早くもメンタル崩壊寸前であることも自覚している。本稿は、自身の執着心(のみ)から生じた自身への責め苦に対する、せめてもの気晴らしから編まれたものでもある。完成度に難があることは自覚しているが、陰謀論者がこの辺の考察を行った形跡はないから、ここら辺の悩みをきちんと整理して提示した先行研究が存在するものかを後ほど探した後、有用であるかどうかの結論を出すことにしよう。キルケゴールによれば、私自身が考え抜くことが大事ということになるが、それを公開してしまうことは、また別の機会に考察すべき話にもなろう。
おまけ
戦後のわが国においては、日本人女性への性暴力を低減するという建前で、売春制度が整備・運用される一方で、残る国民に対しては、夫婦関係における貞節が強調され、明示的・非明示的な方法を通じて、人口増が奨励された。この取合せは、二枚舌というに相応しいものであり、女性全般に対する官民共同型の性の管理と搾取の両輪であったと言うべきであろう(。ここでも、従軍慰安婦と同じく、官民パートナーシップ(PPP)が機能している)。その後の経済成長を通じて、色町の発展は継続した。色町における人間関係は、被差別民であった民族集団の一部の特権集団化を補助線として、日本の権力構造を裏から規定した(。誰がどう言おうが、これは事実に近い表現である)。その世界の様子の一端は、古くは松本清張により、近年では多くの優れた劇画やノンフィクションにより良好に表現されているから、その筋の人間の言葉を直接に聞かずとも、一般人でも、十分に警戒心を抱くことができるであろう。
このやり口の問題は、夜の街を構成する私的な社会集団に(進んで)身を投じた経験のある人々は、インサイダーとみなされ、いつまでも搾取の対象とされる羽目に陥ることである。前稿で指摘した「いつまでも記録の残る社会」において、この種の関係性は、よほどの飛躍によらなければ、いついつまでも、個人を縛ることになる。この実例として、政界を例にとれば、小池百合子氏に対する文藝春秋の記事や、朝日新聞による細野豪志氏の記事を挙げることができる。これと同様の搾取が裏社会に近い業界で行われていることは、単に知られることなく、細く長く、認知されない犯罪として行われているものと容易に推測できるし、脆弱性として現実に存在するものであることは、否定しようのない事実である。搾取的な社会構造を変えることを個人が願うのであれば、その個人は、できる限り狡猾であらねばならないのであろう。
[1] カール・マルクス, フリードリヒ・エンゲルス, 大内兵衛・向坂逸郎〔訳〕, (1848=2007). 『共産党宣言』(改訳改版), 東京:岩波書店(岩波文庫).
[2] ヴェルナー・ゾンバルト, 金森誠也〔訳〕,(和書・たしか改訳2000).『恋愛と贅沢と資本主義』, 東京:講談社(講談社学術文庫版).
[3] エーリッヒ・フロム, 阪本健二・志貴春彦〔共訳〕,(1962=1965).『疑惑と行動 マルクスとフロイトとわたくし』, 東京:創元新社.
[4] ポール・ストラザーン, 浅見昇吾〔訳〕, (1997=1998). 『90分でわかるキルケゴール』, 東京:青山出版社.
[5] 黒﨑真, (2018). 『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』, 東京:岩波書店(岩波新書).
2018(平成30)年6月30日12時35分追記・訂正
本文の表現を一部改めるなどした。
本日、自由民主党幹事長の二階俊博氏の少子化に係る発言を批判する記事を見かけたが、この二階氏の発言に対する林泰人氏の批判には、性と経済との抜き差しならない関係への言及がない[6]。この欠如は、林氏が忠誠を誓う勢力を推量する上で、確定的な材料とはならない。しかし、林氏が引用する外国人の意見を並べてみる限り、この記事は、両建て構造のBチームとしての機能を果たし、対立を煽るだけに終わっている。少なくとも、林氏の記事には、この解釈そのものを許す余地が認められる。
両建て構造において、Aチームの支配原理は、強者の論理を反映したものであり、暴力・金力こそが正義を体現しているが、この一方で、Bチームの支配原理は、愛と公正を連帯により求めるという弱者の論理を反映したものである。ときにBチームは、Aチームの支配を打ち砕こうとするあまり、性の解放を過剰に主張する論者の意見をそのまま利用することがある。この陥穽は、もちろん、『共産党宣言』の当初から気付かれていたことであるが、またもや、過ちが繰り返されようとしているということもできよう。それに、同書にも元ネタがあることは、陰謀論者なら、良く知るところであろう。
なお、本稿に関連して、生煮えであるが、指摘しておきたい;赤尾光春・向井直己の両氏の編集による『ユダヤ人と自治 中東欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』[7]は、11章「「捕囚の中の捕囚」の地としてのロシア――ソ連邦におけるユダヤ教の自治とハバド・ハシディズムの地神学」(赤尾光春)を含むが、同章は、ソヴィエト・ロシアにおけるユダヤ人の弾圧を加速したのが、ユダヤ人社会の革命化を目的として1918年に共産党内に設置されたユダヤ人部会(Yevsektsiia、イェフセクツィヤ)であったことを指摘する〔p.303〕。他方で、この弾圧は、同書の序章に見る限り、ロシア革命当初時点では、必ずしも予定されていなかったもののようにも読めてしまうものである。つまり、同書の
という記述は、民族や宗教によって画一的に個人を規定してしまう人種・宗教プロファイリングの恐ろしさを示唆する材料になりこそすれども、ユダヤ人社会の全体が世界的な陰謀を企画実行してきたという見解を肯定する材料には、到底なり得ないものである。一九十七年の二度にわたる革命によってようやく市民として解放されたロシアのユダヤ人は、歴史上類を見ない特異な状況に置かれた。ヘブライ語を基盤とするラビ・ユダヤ教とシオニズムが「ブルジョワ的反動」という烙印を押されて過酷な弾圧に晒される一方で、イディッシュ語を母語とするユダヤ人の世俗的な大衆文化は公的に認められたばかりか、国家の後援によって発展を保証されたのである。内戦の終結と諸共和国の編入を契機に、ソヴィエト政権は、「土地に根差すこと」という意味の「土着化(korenizatsiia)」政策を採り、「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という党路線に沿う限りにおいて、ロシア以外の諸共和国における民族文化の自治政策を推し進めた。〔以上、p.14〕このような政治的背景の中で問題となったのは、この民族文化が根差すべき土地をもたないユダヤ人大衆であった。そこでソヴィエト当局の間で浮上したのが、極東のビロビジャン地方にユダヤ人の自治州を創設し、移住を促進するという計画だった。〔…略…〕縁もゆかりもない土地に、ほとんど開拓者のようにして送り出されたユダヤ人が、ビロビジャンを「乳と蜜の流れる地」へと変容させていくという、メシアニズムともユートピアニズムとも呼べるようなモチーフは、「ディアスポラへの定住」という、シオニズムとはおよそ対極の理想の表現でもあった。
「ディアスポラへの定住」、ないしは「ディアスポラのユダヤ化」ともいうべきこの思想は、無論、ビロビジャン自治州の構想を受けて突然作られたものではない。第一一章〔…略…〕は、ハバド=ルバーヴィチと呼ばれるハシディズムの一派において、ロシアというディアスポラの地への固着・愛着がいかに形成されてきたかを跡づける。著名ではあれ必ずしも主流とは言えないこの一派が帝政ロシアからソヴィエト体制にかけて採ってきた生存のためのしたたかな闘争――それは今日のロシアでの活動にも形を変えて継承されている――は、アシュケナージの近代における「自治」の歴史を再考する上で示唆に富むものである。
〔pp.14-15、序章「隷属と独立のはざまで」(赤尾光春・向井直己)〕
しばしば、陰謀論を批判する側の論者の記述は、陰謀論者が一面的で雑駁な見方をするものと決めつけるようなものとして公表され、その雑駁さにもかかわらず、なぜか大いに流通し、受容されている。この種の論者の手になる書籍の中では、田中聡氏の『陰謀論の正体!』は、まだ、陰謀論の中身に多様性があることを指摘している分、マシというべきではあろう。しかし、本稿でいち陰謀論者である私が示すことができたものと思うように、最早、陰謀論者を画一的に規定すること自体、時代遅れというべきであろう。もちろん、私の田中氏に対する評価が二段底であることは、言うまでもないのであるが、それは、またまた次の機会ということにしておきたい。
[6] 日本が抱える少子化問題の真の原因が海外に拡散。二階幹事長の“身勝手”発言 | ハーバービジネスオンライン
(2018年06月29日、取材・文・訳/林泰人)
https://hbol.jp/169324
[7] 赤尾光春・向井直己〔編〕, (20170315). 『ユダヤ人と自治 中東欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』, 東京:岩波書店.
2018(平成30)年7月2日訂正
誤字・脱字の多さが気になったので、一部訂正した。まだ、新規性や面白さについては自己評価を下せていないが、本稿の射程が陰謀論と呼ばれる分野の範囲に留まることは、間違いのない事実である。
2018(平成30)年8月2日12時10分訂正
一部を訂正し、淡い橙色で示したが、本筋には影響ないはずである。