2018年6月27日水曜日

占いという「分かりやすい嘘」の効用

私は、占いを信じないし、この手段を「分かりやすい嘘」とみなすと公言してきた。この見方は、今でも変わらない。ただ、聞き手と話し手の双方が占いを「分かりやすい嘘」の一種であると理解しているのであれば、話は違ってくる。つまり、占いという、真実性を当てにできない手段を前提にしながらも、これに本音を託すというコミュニケーションを成立させることができるのである。「分かりやすい嘘」という表現に対しては、このようなコミュニケーションの多重性を指摘することができる。

占いの多様性は、受け手と話し手がともに本音で対話したいと考えるとき、コミュニケーションに使用しやすいツールとしての要件となる。占いは、日々、様々な種類のものが公表され、お互いに食い違うような結論を述べることがしばしば見られる。しかし、この食い違いこそは、利用者にとって、重要である。利用者は、自身の状況に応じて、自分に都合の良い解釈を採用すれば良いからである。

今週の『週刊ビッグコミック・スピリッツ』(第39巻第33号、2018年30号)の「来れば?ねこ占い屋 週間占いランキング」(占い:タナミユキ、イラスト:吉田戦車、猫監修:山本宗伸)〔pp.350-351〕では、私は「ベンガル族」に相当するが、

変化に弱いベンガル族に、今週新しい風が吹くニャ。とてもロマンティックな出来事が起こる。〔…略…〕そんなに気を重くしないで。悪い変化じゃないから。
とのことである。もちろん、ここで取り上げたのは、自分に都合の良い解釈であったためである。それが証拠に、「ネコバイス」の欄は、
変化へのストレスに強くなるには、不幸を想像しないこと。〔…略…〕
という部分や、「開運方法」の
思いつきで旅行する
という部分は、都合良く無視するのである。




注記

本稿は、かつてアップしていた記事「私事」の、2018(平成30)年6月25日12時20分追記分を、そのまま掲載したものである。この部分は、独立しているし、もったいないので、アップすることとした。元記事は、後日の訂正・修正を経て、どこかにひっそり置いておくかも知れない。ただ、このような作法を取る必要があるという昨今の法的環境に対しては、恨みがある。




おまけ:情報環境の決定的変化、自己と他者への肯定感

人間は、生物でもある以上、カップリング行動の失敗をも糧として、知恵を導き出すものではないのか。最近、少しばかり、キルケゴールの著作を読み直してみているが、婚約解消を糧に思索をあのレベルにまで高めたことは、高校のときにも学習した記憶があるほどである。ほかにも、過去の高名な哲学者や文学者たちの恋愛や結婚生活は、研究題材ともなり、彼らの偉業における要因としても語られることが多いではないか。日記は、様々な研究において、貴重な史料として扱われているではないか。この種類の思索を、日本語の公開の場で、関係者に過剰に配慮する余りに行えなくなることは、本当に良いことなのか。

法律が規範を人々に提示し行動を規制する効果があるという理屈は、その筋の人々によって好んで用いられるが、この理屈は、ときに、法律の設計者が思いも寄らなかった形で、人々の行動に変容を促す。端的には、人々は、日々の行動を過剰に萎縮させる。この事実は、私自身が経験したばかりである。人の心を溶かすだけの技術を持たない私が悪いと言われれば、それまでである。しかしながら、ストーカー規制法のある条項のために、私は、自身の思いを十分に伝えることを躊躇し、結果、十分なコミュニケーションを取る前に、望みを絶たれたと思っている。同時に私は、このことを抗弁しようとして、却って、後に毒となって巡り続けるであろう言葉を発したまま、謝罪も不可能となった。

現在のインターネット時代は、すべての人々の愚行が後々まで残る時代であり、この環境を生き延びるためには、環境を制御するだけではなく、人類の側が理念を進化させて対応する必要がある。ダークウェブ上には、表向き消された種類の文言が多く残され続け、時折、吹き上がることになろうからである。事実、そのような種類の人権侵害行為は、ある人々については一時的に払拭されるものの、最早、どうにもならなくなった人々の事例も見受けられる。このとき、過去を乗りこなすための方法は、現にそうしている人たちの心のしなやかさに学ぶほかなかろう。つまり、自身の(あるいは相手の)過去をすべて含めた上での肯定感である。この肯定感が自身に備わっていれば、人は、立ち直ることも、生き直すこともできよう。

この暗い時代を私たちが生き抜くためには、従来から突き抜けたレベルの相互信頼が必要になる。つまり、我々は、大事な人たちについては、過去は決して変えられないが、未来を変えることはできるという理念を持ち続けることで、何とかこの時代を生き抜くべく、助け合えるのではないか。そうでなければ、この環境下では、人々は、若かりし頃の愚行や失敗に、いつまでも怯えることになるか、あるいは、人に後ろ指を指されるような行為に手を染め続けることになる。「忘れられる権利」を楯に、法律で個々の行為を潰していくことは可能であるが、法律による救済行為は、被害者個人の行動原理を必ずしも変えない対症療法でもあることを、我々は、理解する必要があろう。

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