飯田泰之・田中秀臣・麻木久仁子, (2015). 『「30万人都市」が日本を救う! 中国版「ブラックマンデー」と日本経済』, 藤原書店.の題名は、同書が人口密度や都市空間のあり方についてまで触れていないことから、都市工学を学んだ者としては、羊頭狗肉の感を覚えざるを得ない。 同書については、別稿でも批判的に触れたが、今日、ようやく、なぜ同書の題名に不満を覚えたのかを言語化できたように思うので、(個人的に嬉しくて)メモしておく。
同書の"30万人という人口規模は、ミュージシャンになりたい若者を抱える余裕を持つものである"という趣旨の指摘には、納得できるところがあるのだが、この30万人は、いったいどのような人口密度や都市構造の下に生活するのだろうか。ハワードの田園都市構想も、周辺部にこの規模(25万?)の人口を持つ都市を配するとは述べており、直感的には正しいと訴えるものがある。しかし、ハワードは、これらの人口は、田園郊外に居住するものとして描き出した。わが国でも、首都圏近郊の郊外住宅地(田園調布や成城、川崎市北部や横浜市の周辺部における私鉄開発の住宅地等)は、このハワードの構想に起源を持つ。これに対して、同書の30万人都市のイメージは、(同国人であろう私にも)良く伝わらないのである。都市生活における生活体験が都市者という存在を生み出したことは、ベンヤミンの『パリ――十九世紀の首都』におけるパサージュ論を読めば、良く分かることである。
また、部分の集積は、必ずしも全体とはならないが、このことは、「都市」を「居住」や「建築」とは別個のものとして考察することの意義につながる。ちょうど、デュルケムの『社会学的方法の規準』が「社会」を「個人」に外在するものとして描き出したようなものである。なお、デュルケムは、同書で「物的密度」について言及し、距離が障害とならなくなったときに初めて、社会的な関係が生じることを述べている※。一般に、わが国の都市の中心部の人口密度は、他の先進諸国に比較して低い。また、全体をゲートで囲むゲーティッド・コミュニティのような、住宅地をひとつのクラスタとして際立たせるような住宅地開発というものは、なかなか成功しにくい。それは、田園調布の周辺に、都市空間としては連続的に低質の住宅地が形成されていることを見れば、納得せざるを得ないことであろう。同様に、都市を田園から区分するという行為は、わが国では明らかに失敗している。わが国の都市計画制度は、ゾーニングを基本的な道具とするが、ロードサイド地区が全国の至るところに広がる状況となっている。30万人都市の都市空間は、いったいどのような密度でどの程度の範囲に収められるものなのか、飯田氏らの同書からは、うかがうことができない。
あえて20世紀初頭までの古典を引き合いに出し(ハワードの田園都市構想もそうである)、飯田氏らの著書を批判してみたのは、30万人がいかなる生活イメージの下に生活すれば都市的と呼びうる文化を形成することができるのか、またどのような制度設計の下に形成されるのか、という二点の実際的な課題に対する解答を用意するにあたり、同書に確固とした思想的根拠が存在しないように思われたためである。同書は、明らかに増田寛也氏らの「消滅可能性都市」の議論を受けたものであるが、増田氏らの指摘に対して、いかに都市を存続させるのか、という解答を的確に与えるものではない。
※ この文は、平成28(2015)年1月5日に追記した。同書(宮島喬訳、岩波文庫)のp.224。
2015年12月26日土曜日
2015年12月3日木曜日
人工知能単独による警備業の全自動化は不可能で、あくまで人と機械は共同して事に当たる
2015年12月2日21時のNHKニュース9で、大半の職種が将来人工知能で代替可能になるという旨を述べていた。野村総合研究所による研究成果を労働政策研究・研修機構の主任研究員?の方が解説されていたようだが、ダラ見していたので、Google検索したところ、ほぼ同内容がITmediaニュース(リンク)※1に掲載されていた。リンク先記事の最後の二段落に含まれている情報こそ、労働分野において、人間の役割が欠かせないことを理解する上で重要である。その点を私なりにまとめておきたい。
NHK『ニュース9』では、綜合警備保障の警備ロボットのショッピングモールにおける運用を紹介し、人工知能により自動化されるようになるかのように報道した(ように私には思えた)が、警備業において肝心な点は、それらの警備ロボットを監督する人間が必ず存在しており、その人間の責務は、今後以上に重大になるという点である。巡回警備業務における人数はロボットにより少なくでき、より広い範囲をカバーできるようになるが、人間の責任は、より重大なものとなり、その役割は、より重大なものとなる。その理由は、第一に、一人あたりのカバーする顧客が増加するためであるし、第二に、一人の人間がより多くの事案に対応するためであり、第三に、相手の心中を推量するためのセンサ技術が発達しなければ遠隔地点から人物を的確に判定するという作業は従来以上に困難になるだろうからである。それに加え、警備ロボットに人工知能を搭載するという決定は、その人工知能の構築に関与した人間に刑事上の責任を生じさせるという可能性がきわめて高い。これらの得失両面は、おそらく警備業のトップ層には理解されていることであるが、社会一般に誤解があって良いことは一つもない。社会からの信頼は、わが国においては、警備業を支える大きなインフラだからである。
人工知能が単独で相手となる人間の正体を判定することは、人工知能という「道具」の性能上、基本的には不可能なことである。映画『ブレードランナー』は、映像を通じて、人工知能という存在を的確に描出した作品である(。フィリップ・D・ディック氏の慧眼というところか)。同時期、ロジャー・ペンローズ氏は、人間の知性と現代のコンピュータ※2上で運営される人工知能との間には、明確な違いが存在していることを論証した。現時点の人工知能は、一言でいえば、人間の知性を構成する一部のみからなる存在であり、その一部分の能力が異様に発達しているのである。人工知能に不足している部分は、実態として、多くの人間の手作業により、補助されている。量子コンピュータの開発が進めば、人間の知性を忠実にシミュレートできる可能性が拓けるが、それまでの間は、人工知能には、いわゆる法律上の判断能力というものは、基本的に存在しないと考えるべきである。
いかにマイクロソフトの女子高生AIやIBMのワトソンが人間らしい返答を見かけ上は提示しようとも、現時点の人工知能の判断能力が人間の判断能力と同一のものとみなせないことは、人工知能の責任能力という概念を否定する証拠となる。現在の人工知能における責任能力を考察する上で、同時代的で興味深い材料を提示していたのは、ビッグコミックスピリッツで今年まで連載していた間瀬元朗氏の『デモクラティア』(リンク)※3である。多数決によって動くアンドロイドが犯した犯罪は、開発者にも幇助が適用される形で開発者が拘束されるというエピソードが含まれる。『デモクラティア』については、ネタバレを防ぐためにこれ以上の言及を避けたいが、自律的に機能する人工知能なる存在を想定し、その存在が何らかの犯罪を実行したとき、その行為をいかに裁くのか、わが国においても、また諸外国においても、十分な知見が蓄積されていない中、未来の可能性を的確に示した漫画である。
現在の人工知能に責任能力を持たせることが不可能である以上、警備業務において、人工知能の利用が問題とならないようにするためには、どこかの部署に責任を帰することのできる人間、いわば「人柱」を配置することになる。この状態は、自動運転が可能となった各種の運輸業界と同様の構図にある。警備業にせよ運輸業にせよ、多くの職務において、人柱すなわち「責任の負うことのできる人間」を要所に配置することは、組織社会の基本である。人柱という役割は、前近代的であるものとして極力減らす方向に努力することも可能ではあろうが、業務上の責任が問われる可能性のある社会で営まれる経済的活動である以上、不可欠な「費用」であるとともに、人間が生活する上で必要な労働を専門化して効率化し、大規模化するときに伴う必然であるとみなすこともできる。人柱概念は、リスクを細分化するという、わが国でもある程度の研究の蓄積がある話にも深い関連があるし、諸葛亮孔明が発案したという饅頭の起源にもつながるし、兵馬俑から埴輪の話にもつながるので、私には扱いきることのできないものである。人工知能と埴輪を気にしながら今回の話を取り上げなければならないと考えた研究者は、今回メディアで大々的に取り上げられた中に、どれくらいいたものか、少々気になるところではある。
いざというときの責任を明確にする必要に迫られたとき、警備業では、自動車産業において実装が進みつつある安全技術(たとえばブレーキシステム)と同様に、オペレーションルームでロボットを監督する人物を補助するためのセンサ技術のさらなる開発が求められることになろう。人間の表情を的確に捉え、内心を推量することは、同じ人間であっても、訓練を通じなければ高めることができないし、その手段が果たして視覚と聴覚だけによるものかどうかについては、まだまだ疑問が残ることである。ジェフリー・ローゼン氏は、『Naked Crowd: Reclaiming Security and Freedom in an Anxious Age』の冒頭で、イスラエルの航空セキュリティ担当者の言を引きつつ、警備の最後は人である、と述べている。私自身は、超能力をまったく信じていないが、人間がほかの人間についての判断を下すときに、視覚と聴覚以外の五感、特に嗅覚や触覚を利用していないとも限らないという仮説には同意する。この点、恐怖に関する生理学上の研究でフェロモンが関係していそうであるといった事実が詰められつつあるようであるが、犯罪+生物という分野については、私自身の素養が浅く、的確に紹介できる自信がないのでサボらせてもらう。さらには、たとえば「気」などを微弱な電流の変化に基づく電磁波として捉えるという、科学的な論拠の下に検証しようとする研究もあったような気もする。これらの研究が現に存在するという事実をふまえれば、「当代の最高水準の科学に基づいて十分な検討を行ったか」という、事故・事件の検証において重要な「予見可能性」に係る要件は、相当にハードルが高いものである。ここで私が引用しようとして、うろ覚えということにしてサボろうとしたことは、主にサボり癖によるためであるが、ハードルの高さを予感させることも狙ってのことである。
以上が、「人工知能による警備業務の全自動化」を実現しようとする際の問題を俯瞰したとき、私が現時点で思いつく限りの問題の所在である。埴輪からフェロモンまでを的確に俯瞰して、わが国の状況に即して、近代以降の人権に係る理念に基づき、問題解決方法を企画できる傑物が存在していて欲しいものである。なお、この話は、私の手には明らかに余ることである(が、山の険しさくらいは分かることである)し、この話を詰め切ったとして、未来に何か良い展望が拓ける可能性もないので、この程度で切り上げたい話ではある。本記事は、一種のネタ帳であり、これを利用したいという方は、ぜひCC-BYで利用して欲しい。こんなことは、明記せずとも「上品な」研究者なら行うことであるとは思うけれども、これもまた、一種の「保険」である。
※1 日本の労働人口の49%、人工知能・ロボットで代替可能に 10~20年後 NRI試算 - ITmedia ニュース
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1512/02/news111.html
※2 チューリングマシン
※3 小学館:コミック 『デモクラティア 1』
http://sol-comics.shogakukan.co.jp/solc_dtl?isbn=9784091857064
一部をうろ覚えで書くので申し訳ないが、聴覚障害者に背中のパッドの刺激で音を伝達する研究が紹介されていた(「人が人を超える日」)。この研究は、有用であると思ったが、その直後、研究を主導する教授(Baylor College of MedicineのDavid Eagleman教授)が、別の主導する研究について、いずれ人間の全員をスマホに接続して直接情報を提供できるようになると述べていた事に対しては、戸惑いを憶えた。両方の研究における人間性?の落差は何なのだろう。当人の中では、整合性のとれていることと見えた。その違いは、おそらく、彼の道具に対する哲学に、道具を用いないという選択肢が含まれていないことから生じるものである。技術に対する懐疑の念は、そこには見られない。科学者が技術開発に邁進すること自体は、保証されて然るべきであろう。しかし、そのことと、技術と科学が異なる存在であり、技術には正解が一通りだけではないということは、別の話である。(ただ、聴覚障害をカバーするためのパッドについても、開発の暁に、装着しない聴覚障害者に対してなぜ?というように訝しがるのであれば、彼の態度は一貫しているかもしれない。よかれと思って開発されたソフトウェア等がてんで役に立たないということは、良くありがちなことであるが。)
NHK『ニュース9』では、綜合警備保障の警備ロボットのショッピングモールにおける運用を紹介し、人工知能により自動化されるようになるかのように報道した(ように私には思えた)が、警備業において肝心な点は、それらの警備ロボットを監督する人間が必ず存在しており、その人間の責務は、今後以上に重大になるという点である。巡回警備業務における人数はロボットにより少なくでき、より広い範囲をカバーできるようになるが、人間の責任は、より重大なものとなり、その役割は、より重大なものとなる。その理由は、第一に、一人あたりのカバーする顧客が増加するためであるし、第二に、一人の人間がより多くの事案に対応するためであり、第三に、相手の心中を推量するためのセンサ技術が発達しなければ遠隔地点から人物を的確に判定するという作業は従来以上に困難になるだろうからである。それに加え、警備ロボットに人工知能を搭載するという決定は、その人工知能の構築に関与した人間に刑事上の責任を生じさせるという可能性がきわめて高い。これらの得失両面は、おそらく警備業のトップ層には理解されていることであるが、社会一般に誤解があって良いことは一つもない。社会からの信頼は、わが国においては、警備業を支える大きなインフラだからである。
人工知能が単独で相手となる人間の正体を判定することは、人工知能という「道具」の性能上、基本的には不可能なことである。映画『ブレードランナー』は、映像を通じて、人工知能という存在を的確に描出した作品である(。フィリップ・D・ディック氏の慧眼というところか)。同時期、ロジャー・ペンローズ氏は、人間の知性と現代のコンピュータ※2上で運営される人工知能との間には、明確な違いが存在していることを論証した。現時点の人工知能は、一言でいえば、人間の知性を構成する一部のみからなる存在であり、その一部分の能力が異様に発達しているのである。人工知能に不足している部分は、実態として、多くの人間の手作業により、補助されている。量子コンピュータの開発が進めば、人間の知性を忠実にシミュレートできる可能性が拓けるが、それまでの間は、人工知能には、いわゆる法律上の判断能力というものは、基本的に存在しないと考えるべきである。
いかにマイクロソフトの女子高生AIやIBMのワトソンが人間らしい返答を見かけ上は提示しようとも、現時点の人工知能の判断能力が人間の判断能力と同一のものとみなせないことは、人工知能の責任能力という概念を否定する証拠となる。現在の人工知能における責任能力を考察する上で、同時代的で興味深い材料を提示していたのは、ビッグコミックスピリッツで今年まで連載していた間瀬元朗氏の『デモクラティア』(リンク)※3である。多数決によって動くアンドロイドが犯した犯罪は、開発者にも幇助が適用される形で開発者が拘束されるというエピソードが含まれる。『デモクラティア』については、ネタバレを防ぐためにこれ以上の言及を避けたいが、自律的に機能する人工知能なる存在を想定し、その存在が何らかの犯罪を実行したとき、その行為をいかに裁くのか、わが国においても、また諸外国においても、十分な知見が蓄積されていない中、未来の可能性を的確に示した漫画である。
現在の人工知能に責任能力を持たせることが不可能である以上、警備業務において、人工知能の利用が問題とならないようにするためには、どこかの部署に責任を帰することのできる人間、いわば「人柱」を配置することになる。この状態は、自動運転が可能となった各種の運輸業界と同様の構図にある。警備業にせよ運輸業にせよ、多くの職務において、人柱すなわち「責任の負うことのできる人間」を要所に配置することは、組織社会の基本である。人柱という役割は、前近代的であるものとして極力減らす方向に努力することも可能ではあろうが、業務上の責任が問われる可能性のある社会で営まれる経済的活動である以上、不可欠な「費用」であるとともに、人間が生活する上で必要な労働を専門化して効率化し、大規模化するときに伴う必然であるとみなすこともできる。人柱概念は、リスクを細分化するという、わが国でもある程度の研究の蓄積がある話にも深い関連があるし、諸葛亮孔明が発案したという饅頭の起源にもつながるし、兵馬俑から埴輪の話にもつながるので、私には扱いきることのできないものである。人工知能と埴輪を気にしながら今回の話を取り上げなければならないと考えた研究者は、今回メディアで大々的に取り上げられた中に、どれくらいいたものか、少々気になるところではある。
いざというときの責任を明確にする必要に迫られたとき、警備業では、自動車産業において実装が進みつつある安全技術(たとえばブレーキシステム)と同様に、オペレーションルームでロボットを監督する人物を補助するためのセンサ技術のさらなる開発が求められることになろう。人間の表情を的確に捉え、内心を推量することは、同じ人間であっても、訓練を通じなければ高めることができないし、その手段が果たして視覚と聴覚だけによるものかどうかについては、まだまだ疑問が残ることである。ジェフリー・ローゼン氏は、『Naked Crowd: Reclaiming Security and Freedom in an Anxious Age』の冒頭で、イスラエルの航空セキュリティ担当者の言を引きつつ、警備の最後は人である、と述べている。私自身は、超能力をまったく信じていないが、人間がほかの人間についての判断を下すときに、視覚と聴覚以外の五感、特に嗅覚や触覚を利用していないとも限らないという仮説には同意する。この点、恐怖に関する生理学上の研究でフェロモンが関係していそうであるといった事実が詰められつつあるようであるが、犯罪+生物という分野については、私自身の素養が浅く、的確に紹介できる自信がないのでサボらせてもらう。さらには、たとえば「気」などを微弱な電流の変化に基づく電磁波として捉えるという、科学的な論拠の下に検証しようとする研究もあったような気もする。これらの研究が現に存在するという事実をふまえれば、「当代の最高水準の科学に基づいて十分な検討を行ったか」という、事故・事件の検証において重要な「予見可能性」に係る要件は、相当にハードルが高いものである。ここで私が引用しようとして、うろ覚えということにしてサボろうとしたことは、主にサボり癖によるためであるが、ハードルの高さを予感させることも狙ってのことである。
以上が、「人工知能による警備業務の全自動化」を実現しようとする際の問題を俯瞰したとき、私が現時点で思いつく限りの問題の所在である。埴輪からフェロモンまでを的確に俯瞰して、わが国の状況に即して、近代以降の人権に係る理念に基づき、問題解決方法を企画できる傑物が存在していて欲しいものである。なお、この話は、私の手には明らかに余ることである(が、山の険しさくらいは分かることである)し、この話を詰め切ったとして、未来に何か良い展望が拓ける可能性もないので、この程度で切り上げたい話ではある。本記事は、一種のネタ帳であり、これを利用したいという方は、ぜひCC-BYで利用して欲しい。こんなことは、明記せずとも「上品な」研究者なら行うことであるとは思うけれども、これもまた、一種の「保険」である。
※1 日本の労働人口の49%、人工知能・ロボットで代替可能に 10~20年後 NRI試算 - ITmedia ニュース
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1512/02/news111.html
※2 チューリングマシン
※3 小学館:コミック 『デモクラティア 1』
http://sol-comics.shogakukan.co.jp/solc_dtl?isbn=9784091857064
平成27(2015)年12月21日追記、平成28(2016)年2月12日一部追記(書き散らし)
National Geographic Channelで、『ブレイクスルー 科学革命の夜明け』というシリーズが放送されている。最新の生物・医学+技術研究の動向がマスコミ人のトップリーダーにより紹介される番組である。一部をうろ覚えで書くので申し訳ないが、聴覚障害者に背中のパッドの刺激で音を伝達する研究が紹介されていた(「人が人を超える日」)。この研究は、有用であると思ったが、その直後、研究を主導する教授(Baylor College of MedicineのDavid Eagleman教授)が、別の主導する研究について、いずれ人間の全員をスマホに接続して直接情報を提供できるようになると述べていた事に対しては、戸惑いを憶えた。両方の研究における人間性?の落差は何なのだろう。当人の中では、整合性のとれていることと見えた。その違いは、おそらく、彼の道具に対する哲学に、道具を用いないという選択肢が含まれていないことから生じるものである。技術に対する懐疑の念は、そこには見られない。科学者が技術開発に邁進すること自体は、保証されて然るべきであろう。しかし、そのことと、技術と科学が異なる存在であり、技術には正解が一通りだけではないということは、別の話である。(ただ、聴覚障害をカバーするためのパッドについても、開発の暁に、装着しない聴覚障害者に対してなぜ?というように訝しがるのであれば、彼の態度は一貫しているかもしれない。よかれと思って開発されたソフトウェア等がてんで役に立たないということは、良くありがちなことであるが。)
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